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2008年7月25日 (金)

† 殉教者を育んだ教会 続 †

簡単に188人と言いますけれども、みんな私たちのことです。今、私たちが抱えているこの人生の問題なんです。私たち神父が抱えている悩みです。おんなじ悩み、おんなじ希望を持って生きた先輩たちです。彼らが帰ってきます。また迎えましょう。

教皇さまは、26年前日本に初めて訪ねてきたときに、こう言ったんです。「私は、巡礼者として、この地にきました。」巡礼者として、だから日本の行く先々でひざまづいたんです。教皇ヨハネ・パウロⅡ世、ポーランドの出身です。ナチスの悲惨なあの苦しみの経験を持っているんですよね、それは、迫害の経験です。

「日本には、まだ知られていない、そして本当は日本の教会をあの時代、一番良く支えてきた信徒たちがいたでしょう。彼らに光を当ててください。」 本当に地域で支えたのは、その地域のバルナバたち、つまり慰めの子といいます。宣教師にとっても、その人は慰めでした。仲間の信徒たちにとっても、この人がいないと自分たちはもうつぶれてしまいそうだったんです。そういう人たちが、ずーっと日本の教会を支えてきたんです。バルナバ、あだ名ですね。この人なしには、あのエルサレムの初代教会は、語れなかったんです。  日本も同じです。日本の各地でそれぞれバルナバになってくれたような人たちがずーっといたんです。だから続いているんです。

長崎県五島列島にたくさんの巡回教会というのがあって、島のちょっと奥まった所に行くと道は細いし、どうかすると車も行かない、そういう所にきれいな教会があるんです。入っただけで「ああ、ここは祈っている。」 ってわかるんです。その教会に入っただけで、何となくここは土足で入ってはいけないって思うんです。だから、静かに靴を脱ぐんです。そこには、今朝ミサはなかったはずなのに、しかし信者たちが集まって祈ったぬくもりがあるんです。祈りの本がまだ温かいんです。聖歌集が、まだそこに温かいぬくもりを持ってあるんです。  神父は、時間がくれば替わるんです。でもその人たちはいつも一緒に住んでいます。

だから、大切なことは仲間に相談するんです。それが、日本の教会の最初からの姿なんです。宣教師が追い出されて、一人の司祭もいなくなって、それでも信徒だけで教会がずーっと伝わっていくんです。こういう経験をした教会は、地方教会は、実は日本だけなんです。

日本の教会を振り返るときに、殉教の話、彼らが自分で望んで、そのことを引き受けたんです。「 どっちを取りますか?って。これを捨てたら、こっちが得られますよ。あなたが信じているかけがえのないものを捨てなさい。そうしたら普通の暮らしができます。」 かけがえのないものを捨てるのか、あるいは今、圧倒的にみんながしているような平凡な生活を選ぶのか、強く迫られた時に、「 いいえ、私たちは命に勝るものがあるんです。そっちを選びます。」 そう言って、ほとんどの人たちが選んでいきました。

そこまでに、人間を育てていったものがあります。かけがえのないものを見つけた人間のエネルギッシュな姿です。かつて日本中がそうでした。キリスト信者たちが何かをし始めたときに、本気で生き始めたら、そこが変わっていったっていうことなんです。それは事実です。

今の教会は、別に彼らが何をしようとしても、別に何の害も益もない、その程度のもの。それが今の日本のカトリック教会の姿でしょう。 殉教者たちを育んだ教会、私たち今のカトリック信者たちを育む教会、同じ教会のはずです。あの時代出来たんです。なぜ、今、出来なくなったんでしょうか??

 古巣神父さまの講和より  

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2008年7月24日 (木)

† 殉教者を育んだ教会 †

始めのお祈りに代えて、「主が手を取って起こせば」という賛美があります。

主が手を取って起こせば、なえた足は立ち、おどり歩む喜び、これぞ神のみわざ。「さあ、起きなさい。」らいの街のあの12歳の男の子の葬儀が出ていたとき、泣きながら棺にすがるようにしている母親を見て、キリストは近づいて棺に手を触れて「もう泣くな」と言いますね、そして、少年に向って「さあ、起きなさい。」

今の日本のカトリック教会は決して元気ではないです。しかし、今回の188名の400年前の、われわれの先祖たちがまいた血を通して、まいた信仰の種がある。それがやっと芽生える時がきました。それは主が手を取って起こせば、なえた足は立ち、おどり歩む喜び、これぞ神のみわざ。

宗教はしるしです。どんなしるしを持って生きるのか、喜びのしるしなのか、悲しみのしるしなのか、あるいは文句ばっかりのしるしなのか、福音は喜びのしるしのはずです。その福音を携えた教会が、あたかも苦しみを全て背負ったかのように、全ての不満を背負ったかのように、そういう顔で生きているならば、そこには福音のしるしはありません。

絶望の隣に誰かがそっと腰かけた。絶望は隣の人に聞いた。「あなたはいったい誰ですか?」隣の人は微笑んだ。「私の名前は希望です。」  (やなせ・たかしさんの詩より)

皆さんの教会は、元気ですか?皆さんの一つ一つの家庭はどうですか?笑いがありますか?皆さん一人一人の人生、今どんな境遇ですか?何を背負って、ここに来ましたか?どうなりたいんですか?ずっと同じではありません。生きて死ぬ間に、ずーっと変わっていきます。そして、どうしようもなくなった時に、神様は、そおーっと遣わすんです。「私の名前は希望です。」それもそおーっとです。深い闇の中に静かに夜露が降りて、そして黒雲を切り裂いて光が差し込むようなやり方もあります。

日本のカトリック教会の450年余りの歴史の中で、今回の188名の列福の出来事、それを私たち日本の教会にとって、福音として受け止めたいです。絶望の隣にこれからどうなるんだろうわれわれの教会は、そういう少しかげりが見えてきたこの教会の中で、希望として受け止められたらと思います。

 古巣神父さまの講和より

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2008年7月18日 (金)

† カトリックのミサ 続 †

カトリックのミサの続き…

感謝の賛歌

http://www47.tok2.com/home/kawagoe-saitama/tenreiseika/tenrei209.html

平和の賛歌

http://www47.tok2.com/home/kawagoe-saitama/tenreiseika/tenrei210.html

愛と いつくしみの あるところ (奉納の唄)

http://www47.tok2.com/home/kawagoe-saitama/tenreiseika/tenrei322.html

マリアさまの こころ (拝領の唄)

http://www47.tok2.com/home/kawagoe-saitama/tenreiseika/tenrei407.html

ガリラヤの風かおる丘で (閉祭の唄)

http://www47.tok2.com/home/kawagoe-saitama/tenreiseika/tenrei388.html

奉納の唄、拝領の唄、閉祭の唄は時節に応じて変わります。それぞれのカトリック教会に任せられています。カトリックのミサは、聖歌と共に祈りと共に進んでいきます。

”すべてを治める神、わたしの王、わたしの神よ、あなたの祭壇の際にすずめは住みかを見つけ、つばめも巣を作ってひなを育てる。あなたの家にとどまる人はしあわせ。” 詩編84、4-5より

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2008年7月15日 (火)

† カトリックのミサ †

カトリックのミサを音楽と共に楽しんでいただけたら…

日曜日の主日のミサに十字を切る †

父と子と聖霊のみ名によって アーメン

神父さまによる集会祈願がある

それから、パイプオルガンに合わせて聖歌を歌う♪

あわれみの賛歌

http://www47.tok2.com/home/kawagoe-saitama/tenreiseika/tenrei203.html

栄光の賛歌

http://www47.tok2.com/home/kawagoe-saitama/tenreiseika/tenrei204.html

これから、聖書朗読がある

カトリックのミサの初めの部分だけを少しだけでも味わってもらえたらと思います。

”すべてを超える神よ、わたしは心から感謝し、あなたの偉大なわざを告げ知らせる。”

詩編 9-2より

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2008年7月 6日 (日)

† イエスさまとマリアさま †

イエスさまとマリアさま

今回は、こんな題名を書いてみた。というのも、先日の主日のミサの帰りにある信者さんから聞いた言葉がきっかけだった。

私は、イエスさまが好き † だからいつもイエスさまの十字架を身につけている。その方は、マリアさまのおメダイを身につけていた。マリアさまのおメダイと言えば、不思議のメダイ

http://www.tomoshibi.or.jp/medai/index.html

があるくらいだから、マリアさまに信心を持つ人は身につけていて当然だとおもう。

が…そこで言われた、

マリアさまのおメダイを身につけているとたやすい生き方を導いてくださるのよ! あなたもマリアさまのおメダイを身につけたら…?と!

そして、イエスさまを身につけている人は、言葉には出さなかったけれども茨の道を歩かせてくださる…そんな感じがしていた。でも、私はどんなことがあってもイエスさまについていく…だからイエスさまを身につける

そんな思いを抱きつつ、カテキズムの勉強会に参加した。神父さまに早速、質問してみた。

身につけるとしたら、どちらが良いのですか??

神父さまは笑っていた。そして、イエスさまとマリアさまを同じレベルで考えてはいけないと…、イエスさまは神様であるし、マリアさまはその母であるから、一番力の強いのはもちろんイエスさまに決まっていると。しかし、人は御願いをするときに一番力の強い人に直接御願いするよりも身近にいる話をしやすい人に頼むものである。それが、聖母マリアさまの存在で取り次ぎ手としてマリアさまは、世界中の人から親しまれている

私のした質問は、人間の欲や見栄がからんだ内容であったことがわかった。どうも、人から何かを言われると気になってしまうし、それが信者さんからだったものだから、余計に気になっていたのであった。

そこで冷静になって考えてみたが、今、私が勉強会に招かれているには意味があるし、聖霊の祈りに参加しているのもきっと、神様のご計画の内なのだと思う。信仰が深まれば深まるほどに、またいろいろなことがあるものです。

でも、私の心に宿っているイエスさまの愛の炎は決して消えることがないでしょう †

今日の御言葉

 ひとつぶひとつぶ生きていて 

  ひとつにむすばれた おむすび

   晴作久神父さま あなたに会えてより

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