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2008年7月24日 (木)

† 殉教者を育んだ教会 †

始めのお祈りに代えて、「主が手を取って起こせば」という賛美があります。

主が手を取って起こせば、なえた足は立ち、おどり歩む喜び、これぞ神のみわざ。「さあ、起きなさい。」らいの街のあの12歳の男の子の葬儀が出ていたとき、泣きながら棺にすがるようにしている母親を見て、キリストは近づいて棺に手を触れて「もう泣くな」と言いますね、そして、少年に向って「さあ、起きなさい。」

今の日本のカトリック教会は決して元気ではないです。しかし、今回の188名の400年前の、われわれの先祖たちがまいた血を通して、まいた信仰の種がある。それがやっと芽生える時がきました。それは主が手を取って起こせば、なえた足は立ち、おどり歩む喜び、これぞ神のみわざ。

宗教はしるしです。どんなしるしを持って生きるのか、喜びのしるしなのか、悲しみのしるしなのか、あるいは文句ばっかりのしるしなのか、福音は喜びのしるしのはずです。その福音を携えた教会が、あたかも苦しみを全て背負ったかのように、全ての不満を背負ったかのように、そういう顔で生きているならば、そこには福音のしるしはありません。

絶望の隣に誰かがそっと腰かけた。絶望は隣の人に聞いた。「あなたはいったい誰ですか?」隣の人は微笑んだ。「私の名前は希望です。」  (やなせ・たかしさんの詩より)

皆さんの教会は、元気ですか?皆さんの一つ一つの家庭はどうですか?笑いがありますか?皆さん一人一人の人生、今どんな境遇ですか?何を背負って、ここに来ましたか?どうなりたいんですか?ずっと同じではありません。生きて死ぬ間に、ずーっと変わっていきます。そして、どうしようもなくなった時に、神様は、そおーっと遣わすんです。「私の名前は希望です。」それもそおーっとです。深い闇の中に静かに夜露が降りて、そして黒雲を切り裂いて光が差し込むようなやり方もあります。

日本のカトリック教会の450年余りの歴史の中で、今回の188名の列福の出来事、それを私たち日本の教会にとって、福音として受け止めたいです。絶望の隣にこれからどうなるんだろうわれわれの教会は、そういう少しかげりが見えてきたこの教会の中で、希望として受け止められたらと思います。

 古巣神父さまの講和より

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