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2008年11月26日 (水)

† この世での涙 †

今日は、同じ病を持つ友人と話をした。友人は、私と同じく離婚をして母子家庭で息子を育てている。それだけでも、尊敬に値すると思っている私は、我子とは離れて住んでいる。

時おり、我息子からの電話に元気でいるのだなーと納得して母の顔になる自分がいる。今は、息子は成長したので何と言っても自分で決めた生き方なのだから、責任を持って社会人として行動して欲しいと願っている。話を聞いて欲しい・・・そんな思いだけで電話をしてくるのだと最近になってわかった母です。

一方、同じ母でも友人は息子の事で悩んでいた。日々の出来事に一喜一憂している様子、私が話を聞いているのだが・・・違う、イエス様が聞いてくれている、そんな感じがした。私の口から出る言葉は、神様が語っていた。いつも、お祈りをしているので今日は、私の耳と口を使ってくださったのかと思う。ありがたいことである。

子育ては、待つこと。これが親にできること。年頃の子には、うっとしいだけで邪魔な存在に見える親であるが、必ず、待っていたら先方から話す時期がくると語っていた。そういえば、神父さまの勉強会で聞いたような…気がするかも!!

友人は、自分が死んだ時の話をした。私が死んだら、周囲の人に泣いて欲しくないと言っていた。それは、自分自身のこれまでの人生が涙だらけであったから・・・そう言う彼女の目には、涙が・・・そんなことはない。この世での涙が多かったから、これから先はそうはなるとは思えないと否定した。神様は、そんなこと絶対に望んでいるはずがないから…

未来は、わからないけれど涙を流すときもあるけれど微笑むときもある。それが、神様のおつくりになった人間の姿だと思う。

”わたしは滅ぼし尽くす。しかし、お前を滅ぼし尽くすことはない。わたしは、お前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してない。” 

 エレミヤ30より

”苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。黄泉の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった。  わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。救いは主にこそある。”   

 ヨナ書2より

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2008年11月24日 (月)

† 列福式に参加できない人のためのミサ †

今日は、長崎で盛大にペトロ岐部と187人の殉教者の列福式が行われた。でも、様々な事情により参加できない人がいる。私もその一人であるが、福岡では、大名教会で長崎の列福式の式典の様子をインターネット中継で大スクリーンで公開してくれた。さらに、列福式に参加できない人のためのミサが行われた。

本当にありがたく、神様に感謝であった。聖歌も列福式会場と同じ、聖書朗読も同じ箇所…神父さまも殉教の赤の祭服であった。

今日のお説教の中で…

殉教者の証したことは、”この世に神様がいる”ということ、これが何よりの大きな支えである。私たちは、価値のある生き方をするのには殉教者の生き方を学ぶ必要があります。

そして、家庭がどれほど大切な意味を持つのか?殉教した人たちのほとんどがごく普通の家庭であったこと、家庭に於いて大きな力である神様の信仰を継承していくことが求められているように思います。

神様を無視しては、家庭も成り立たない、今日の私たちに問いかけられている一つの課題でもある。 今日のこの感動・感激を忘れずにこれからも生きていくことができるようにお祈りしましょう †

そんなお話をされた。

今日のミサにこんなにたくさんの人が集まってくれてありがとうと感謝の言葉をいただいた。思えば、長崎へ行くのは、当然のことではあるが、神父さま自ら司教さまに願い出て留守番とごミサを依頼したと言う。すばらしいと思ったし、私たちは信仰によって救われたとも感じました。

留守番神父さまは、もう一人いらっしゃっていて、聖霊のお祈りの会でお世話になっている神父さまであった。一緒にミサを捧げてくださって、私はこの神父さまよりご聖体をいただいた。心は、み言葉と聖霊に満たされて涙があふれた。

現地長崎へは、いつか行ける日が来ますようにお祈りします †

そして、信仰を持たない人の上にもこの列福式を通して神様が恵みを注いでくださいますようにお祈りします †

父と子と聖霊のみ名によって アーメン

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2008年11月21日 (金)

† 祈り †

ペトロ岐部と188人の殉教者たちの列福式を間近に控え、共に祈りましょう †

父である神の思いを生きる親たち

”忠興様、何と仰せられようとも”  小笠原 玄也

父親像、黙って見守っていても子供は自分にあるものに気づき、成長するといいます。大人に大切なのは「待つ」 ことです。

聖書が伝える「父なる神」 という考えもわからなくしているようです。ヨハネによれば、親は最初に神の教えを知ったものであり、その教えを子供に伝えることが務めであると言っています。その教えとは、「互いに愛し合うこと」 です。

1632年、主君の細川家が熊本に移されたとき、ともに熊本に入り一軒の家が与えられた小笠原一家。間もなく、屋敷牢に閉じ込められ、50日を過ごしました。その間に一家は16通の遺書を残しています。息子や娘のものもそれに含まれていて、読む者に多くを考えさせてくれます。子供たちは、親が信仰を強制したからではなく、自分たちが殉教の死を選んだと述べています。子供は親の背中を見て育つものです。一本筋が通った生き方を父親が見せることで、子供たちは確かな生き方を学んでいくものです。

<祈り>

人びとを導いて下さる神よ、あなたは殉教を遂げた父親たちの模範をわたしたちに与え、家庭を通して信仰に奉仕する者の姿を示してくださいます。一家の柱である父親が、家庭にあっても社会にあっても、その役割を意識し、信仰を持って使命を果たすめぐみをお与えください。わたしたちの主、イエス・キリストによって アーメン †

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2008年11月19日 (水)

† ペトロ岐部と188人の殉教者たち †

ペトロ岐部と188人の殉教者の列福式があと数日にせまってきた。ここ福岡でもかなり盛り上がっている様子…私も参列したかったけれど福岡からだと日帰りになるのでかなりの強行になると思われる。私は、持病もあるので自宅でお祈りをしようと思っていた。が、カテドラル教会で列福式に参加できない人のためにごミサが同じ時刻に行われる。

神様は、参列できない私たちにまで憐れみを注いでくださっているのだと感じている。もちろん、ごミサに与ろうと思っている。

<お水のうた>

お水いただきに参ろうよ 参ろうよ
泉の水は 天のお水よ
天のお水をいただきに 参ろうよ
お水くださる 天のお命よ
ジョアンさまには 四〇〇年を
誰が泣くのか お水ぱこぼれる

-隠れキリシタンの殉教の現実と一つに
流れている流れが小泉の流れなのです-

同じお水が 稲子ば育てる
稲子育てよ おらが仲間よ
田植えするときや おいらの手足
天のおやさまの 手と足となる
三千尺の原は 寒いぞ
寒い風ふきゃ稲子ぱ寒い
稲子寒けりゃお目様が出て
お水ぬくめる稲子ば育つ

花も小鳥も 小烏も花も
天地一堂に 夏は宴よ
宴の色も宴の声も
田の面の水に 波紋をえがくよ
盆がもどるよ 老いも若きも
里にもどるよ 穂が出そろうよ
宴があがれぱ みのリの時の
湖もあがるよ みんなだまるよ
みんなだまれば もつとだまれぱ
黄金の波の見渡す限リ
黄金の波の見渡す限リ

原にゆらげぱ 山は燃えるよ
山が燃えれば 黄金を刈るぞよ
紫紺の空に 黄金をかけるぞ
黄金かけれぱ 紫紺の空に
黄金こぼれる 黄金の涙
 人はかわれど もみ焼く煙
同じ思いをこめて のぼるよ
人がかわれぱ 同じ田の米
食ぺる人ます キリスト様よ
キリスト様の体は 育てよ
同じ田の米食うて 育てよ
キリスト様の体の お命
あふれ流れる 水のひぴきよ
思いがけなく お命にうたれリや
恩いがけなく 流れて行けよ
人にかくれて 流れて行けよ
同じお水の命の ひびきよ
流れ行けども 流れ得ぬ人
とどまリながら 流れ行く人
同じお水の流れのお姿
ひとつひとつの ひびきがこもるよ
違うひびきが一つに こもるよ
天のおやさまの心に こもるよ
           ハイハイ

偶然?ってことはないでしょうが、マリア様のご像が来てから見つけたものです。なんだか心に惹かれるものがあり、いつかこの地へ巡礼に行ってみたいと思いました。

弱い立場の中に輝く希望

”わたしには夜道など ありません。” ダミアン

何の希望も見出せないと感じるときでも、希望は決して失わないことに気づけるように、神は見捨てられた人びとを、あかし人に選びました。

<祈り>

限りない愛を示してくださる神よ、あなたは弱い者を選んで人びとの助けとし、喜びの福音を告げるものとしてくださいます。弱い立場に追いやられた苦しみをとおして主と出会った殉教者にならい、苦難の中にこそ主への希望を見出すおめぐみをお与えください。私たちの主、イエス・キリストによって アーメン †

復活の福音を担う女性たち

”だいじょうぶ、もうすぐすべてがはっきりと見えるから。” テクラ橋本

聖書の中で女性の典型的な姿は神の母性の中に見出されます。途方にくれる人間の「うめき」 に呼応して「言葉に表せないうめきをもって」 とりなししてくださる聖霊、神は特別な方法で女性にその使命を託されました。女性の尊厳と精神的、霊的な強さの由縁は、ここにあります。

殉教した女性や母たちの中には、聖母マリアの面影があります。その使命を一途に生きる女性たちのかたわらに、いつも「イエスの母がいる」 からでしょう。

<祈り>

いつくしみ深い父よ、聖母マリアの取次ぎによって祈ります。あなたはイエスの母、教会の母である聖母マリアの生涯の神秘をとおして、女性一人ひとりが受けた召命の尊さと豊かさを示してくださいます。わたしたちが、殉教した女性たちにならい、混迷する現代社会の中で、与えられた召命と使命を希望と喜びのうちに果たすめぐみをお与えください。わたしたちの主、イエス・キリストによって アーメン †


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2008年11月 6日 (木)

† ゆずれないものとまことの自由 †

「他のことであれば、すべて従うことができますが、救いにかかわることならば、受け入れることができません。」  レオ税所七衛門

<聖人レオ>

その昔ローマがゲルマン民族の侵入に悩まされていた当時、敢然と彼らの侵入を防いだことで知られている。

洗礼をうけたときの決意を表したことばが残っています。

「承知しています。しかし、キリストの教えに救いがあると分かったので、だれも、わたしをそこから引き離すことができないでしょう。」

たとえ主君の命令であってもこの信仰だけは捨てることができないと、洗礼を受けるときに述べているのです。キリストを信じる者は、たとえ親であっても主君であっても、教えに反するものには従うことができないとの信念に生きています。実際、かれはわずか4ヶ月の信者生活を送ったに過ぎません。殉教のときのことばも、受洗のそれとまったく同じです。

<祈り>

人々のまことの自由を与えてくださる神よ、殉教者に学ぶわたしたちに、大切なものを見分ける確かな判断力と、どのような困難の中でも、ゆずることのない信仰をお与えください。 私たちの主イエス・キリストによって アーメン †

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