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Cathsiena

Cathsiena

<シエナの聖カタリナについて>

(1347~1380年)祝日4月29日
1347年イタリアのシエナに生まれる。幼少時からイエズスのご出現など特別な恵みを受けていた。1380年帰天、1461年列聖。


シエナのカタリナは、度々イエズスのまぼろしを 見たり、 神秘的な恍惚状態を経験したが、同時に、彼女は全く現実的な女性でもあった。 カタリナの生まれた14世紀のイタリアは、 教皇党と反教皇党との対立による 果てしない内乱、ペストの流行、教皇のローマから南フランスのアヴィニョンヘの70年間の流詞などで 最大の難局に直面していた。こうした混乱の中で、神に選ばれて教会のために厚くした者は、 世の中の知恵者でもなく、強い者でもない、ひとりのか弱い女性カタリナであった。

 カタリナは1347年シエナの染物屋の娘として生まれ、18歳の時ドミニコ会の 第三会員となり、家事を手伝いながら暇を見ては 貧者や病人を見舞って、できるだけの捷助をした。しかし彼女は、教会の大きな問題を 解決するために神の道具として働き、大きな功績を残した。 そのひとつはグレゴリオ11世教皇がカタリナの 切実な勧めに従って、ついにアヴィニョンからロ-マヘ帰還したことであった。 真の教皇と対立教皇の争いの時には、カタリナはウルバノ6世教皇を支持し、忠実に仕えた。彼女が帰天したのは 1380年33歳の時であった。

私が思い出すのは ブリュノ・ロリウーの『中世ヨーロッパ 食の生活史』(原書房)です。そこでシエナのカタリナは 「たくさん食べては吐き、生理はとまり、エネルギーに満ち溢れ、 不眠症だった」と言われています。またその後カタリナは 食べること自体をも拒むようになり、

 こっそり食べているに違いないと 批難する者もいた。そのような人々を納得させ、 自分の体を心配する人々を安心させるために 、カタリナは一日に一回、人の見ているところで食べるようにしていた。

  もっともそのあとで、 「フェンネルなどの草の茎」を胃まで入れ、 「胃に入ったわずかな食べ物」も出してしまわなければ ならなかった。
 と書かれているのです。病跡学(Pathographie)*1がこれを扱えば、 確かに摂食障害が疑われるところかもしれません。


 しかし摂食障害が「病気」とされるようになったのは あくまで最近の こと。彼女は まずなにより聖者として (信仰者に)受け容れられ記憶されているのですから。 ただ現在その障害に悩む人にとっては、 そうした困難が克服され、それを乗り越えて人生を全うした 一つのモデルとして意味があるかもしれません。

 どこでも、そしていかなる時代でも、 病気なのは個人であるが、しかし個人は社会の目から見て病気なのであり、 社会との関連で、社会が定めた様式によって病気なのである

 クロディーヌ・エルズリッシュ、ジャニーヌ・ピエレ『「病人」の誕生』藤原書店、1992


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