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<乙女峠での殉教>

山陰の小京都と呼ばれる津和野。この静かな山間の町に、乙女峠はあります。
 ここは峠ではありませんが 「乙女峠」 と呼ばれるのは、故永井隆博士が この地で殉教したキリシタンの本を書いた時にそのタイトルを 『乙女峠』 としたからでした。

 「浦上四番崩れ」という弾圧によって、流刑された長崎・浦上の153人の信徒たちは、 1868(明治元)年から1873(明治6)年まで、光琳寺 (現在は廃寺) という寺に収容されました。

 4万3千石の小藩石見の津和野に 送られた信徒たちの数は、他の大きな藩と比べて多く、高木仙右衛門、守山甚三郎など とりわけ信仰の堅固な人たちばかりでした。

 当時の津和野は、神道の研究が盛んで、神道による改宗の説得が 試みられました。しかし、厳しいキリシタン迫害を生き抜いた 浦上の信徒たちの信仰は堅く、揺らぐことはありませんでした。そのため、拷問による棄教が 強要したのでした。

 寒さの厳しいこの地で、畳はなく、ふとんの代わりにムシロを 1まいずつ支給されました。また、十分な食事が与えられず、飢えと寒さで苦しみました。

 さらに、どんな拷問にも屈しない者たちは、90センチほどの 立方体の狭い牢、三尺牢に入れられた。この牢には、天井に小さな穴があいており、そこから物を 差し入ることができました。身動きもできない この牢に入れられるのは、大変な苦痛でした。

 父とともに津和野に送られた 27歳の和三郎も、この三尺牢に入れられました。和三郎は、20日間がんばりましたが、とうとう病気になり、この牢の中で殉教しました。


和三郎の後に30歳の安太郎が 三尺牢に入れられました。彼は、聖母マリアに 深い信心を持っていました。甚三郎と仙右衛門は、弱った安太郎に、牢を 抜け出し会いに行きました。彼らは、安太郎から、聖母の出現を聞きました。

「12時よりさきになりますれば、あおい着物にあおいきれを かぶり、サンタ・マリア様のご絵の顔立ににております。その人が物語りを いたしてくださるゆえ、すこしもさみしくはございません」
と。彼も間もなく殉教しました。

 1873(明治6)年、キリシタン禁制が廃止され 信仰の自由が認められ解放されるまでに、36人の信徒たちが殉死しました。彼らの墓は、燕坂の千人塚にあります。

 JR山口線の津和野駅の裏手にある 光明寺の手前を左へ曲がり、10分ほど登る山の中腹あたりの石垣の上に、 小さなマリア聖堂が建っています。1951(昭和26)年、ドイツ人のパウロ・ネーベル神父により 建てられたこの聖堂のステンドグラスには、この地における殉教物語が描かれています。

 谷川のせせらぎが流れ、緑に包まれた静かな地に、今も殉教者たちの深い信仰のあかしを感じることができます。

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