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Sgtechapel20of20rue20du20bac1

Sgtechapel20of20rue20du20bac1

<ミサ>
私の肉を食べ、私の血を飲む人は、永遠の生命を持つ(ヨハネ6.54)

ペリカンは自分の血でひなを養うと思われていたので、自己犠牲の
ひいてはキリストご自身の象徴となった。

<ミサ聖祭>
典礼は教会の活動が目座す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が
流れ出る源泉である。(典礼憲章10)

おもに聖体祭儀から、われらに恩恵が流れ、キリストにおける人間の
聖化と神の栄光が最も効果的に得られる。

ご聖体の秘跡であるミサは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛の
きずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の
保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である。(典礼憲章47)

<ミサにあずかる心がまえ>
すべての善業を集めても、ミサ聖祭には及びません。人間がこの愛の
神秘をよく知るならば、死ぬほどその愛に奪われるでしょう。
(聖ヨハネ・ビアンネ)

カルバリオにおいて一度成し遂げられた十字架のいけにえは、聖体の
秘義によって、感嘆すべき仕方で再現され、絶えず思いおこされ、救い
のその力は私達が日々犯す罪のゆるしのためである。
(トリエント公会議)

ミサ聖祭はただこの世にいる信者の罪、償い、その他の必要のためのみ
ならず、キリストにおいて死に、まだ十分清められていない人びとのためでも
ある。(トリエント公会議)

ミサの祭儀はキリストの行為、神の民の行為であって、全教会にとっても、
また信者各自にとっても生活全体の中心である。ミサこそは神の民のすべての
生きる道しるべである。

ミサの中には、キリストおいて世を聖化する神の働きの頂点があり、「あがない」
の諸神秘が思い起こされ、ある意味で現存するものとなって、人々の御父にささげる
最高の礼拝がある。そして、他の聖なる行為および生活はすべてミサと結ばれて
おり、ミサから流れ出、ミサに向かって秩序づけられている。

ミサに心を、そしてそれに自分の生活をこめ、自分のものとなったミサを司祭とともに
ささげる。その時ミサは、自分の心と生活を生かすものとなってくる。

わたしのミサの中にわたしの生活があり、
わたしの生活の中にわたしのミサがある。

ミサの中で、イエズスの生涯のすべてがあらわされる。
だからミサはイエズスの生涯とも言える。

私の生涯もまた、一つのミサといえるーうぶ声に始まり、永遠のうちに終わるミサ
ミサの中で、わたしの生涯はイエズスの生涯に融けあう。

ミサの中に、イエズスは生きておられ、人々のために忍ばれたあらゆる苦しみ、
死を御父にささげる。

ミサの中で、イエズスはよみがえりの喜びをわたしたちに注ぎ、豊かないのちの
みなぎりを与えてくださる。

ミサの中で、司祭とそこにつらなる信者はみなイエズスとひとつになって自分を御父に
ささげる。

ミサはわたしの日常生活にしみこんでこなくてはならない。生活がミサの中にそそが
なければならない。

日曜日のミサはひとつの中心であり、軸であるー過ぎ去った週のすべてが、そこから
流れ出る。ミサは生きる道を示してくれる。

神の家に呼ばれて集まったひとつの家族、イエズス・キリストをかこんだひとつの家族
それがミサの集いである。

ミサには、共同体の一員としての意識であずかり、一人ひとりがそれぞれ自分の分を
尽くすとき、家族は生きてくるのである。

人々の絆は、神に向かう心の結びからできてくるものであり、神のうちに、互いの心の
結びの力をくみ取るのである。

ミサはある意味で、ふたつの部分より成り立っている。すなわち、ことばの祭儀と感謝
(聖体)の祭儀である。このふたつはひとつの礼拝祭儀を構成するほど、互いに密接に
結ばれている。ミサにはふたつの食卓、神のことばの食卓とキリストの体の食卓が用意
されている。信者はそこで養われ、教え導かれる。

信者のひとりひとりが傍観者ではなく、みながその場にとけ込み、盛り上げることが
大切であり、みなの祈りなのである。

ミサには流れというか、リズム、波がある。ミサの流れには、歌もあり、沈黙もあり、
朗読もあり、また、アックラマッティオ(応唱)もあるが、これらをよく生かすならば、
自然に一致の雰囲気が盛り上がるものである。

歌があれば沈黙もある。歌は心のよろこびのほとばしりである。愛するものは歌う。
そしてよく歌うものは二重の祈りをする。

黙しつつ祈る姿は美しい。沈黙は、愛するもののもうひとつの姿である。あらわしえない
深い想い、神の秘義を心のうちにめぐらすのが沈黙である。沈黙を知るものだけがまた、
歓喜の歌をうたい得る。

多くの粒が一つになってできたパンを、主がご自分のからだと呼ぶとき、ご自身がささえて
一つに集められたわたしたちの民を示すのであり、多くのぶどうの粒がしぼられて一つに
なったぶどう酒をご自分の血と呼ぶときは、一つに結ばれたわたしたちの群れをあらわして
いる。(聖キプリアヌス)

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